上記の記事の続きになります。
大きな荷物をコインロッカーに預け、駅の外へ。
伊豆半島東南の町・下田は、下田港の風景や、遠くに伊豆七島を眺めることができる眺望、そして周辺にも数々の景勝地があることで知られています。
が、この日はあいにくの曇り空。
眺望には期待できないので、別の面を楽しみに下田を散策することにしました。
ペリーの来航後、箱館とともに最初に開港したのがこの下田でした。そういったあたりがどのように伝えられているのかを見てみたいと思っていました。
伊豆急下田駅から南へ行くと、途中に宝福寺というお寺がありました。
開国期の歴史の一端を担う寺であったようです。
境内には坂本龍馬の木像が設置されていました。
坂本龍馬は土佐藩を脱藩して逃亡生活をしており、その中で師事した勝海舟が、土佐藩の山内容堂に面会して脱藩の許しを乞うたという縁。
どうみても主役は山内容堂や勝海舟なのですが、像が作られてしまうのは坂本龍馬、ということになるようです。
その少し南には下田市民文化会館が。
開国というのは、軍事力で強いられた屈辱の歴史というイメージがあったのですが、下田での受け止められ方は必ずしもそのようではなく、アメリカ合衆国との交流が始まった場所という位置づけのようです。
さらに南に進むと、了仙寺というお寺へ。こちらは、下田に上陸したペリー一行の応接所として、そして日米交渉の舞台として、やはり開国の歴史を彩る重要な場所のようです。
本堂には、開国当時の様子を描いた絵が掲げられていました。「ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」だそうです。
この了仙寺の境内には、開国期のさまざまな資料を展示した博物館、その名も「黒船ミュージアム」という施設がありました。
内部は例によって撮影禁止なので写真はありませんが、日米交渉に関する資料、ペリーが日本にどのようにやってきて、どのように帰っていったのかに関する資料、下田で日本人とアメリカ人がどのように暮らし、お互いがそれぞれ相手をどのように伝えたかに関する資料などが展示されていました。
個人的には、ペリーは太平洋を横断してきたイメージだったので、地中海からインド・香港経由で来たというのはかなり驚きました。
ここは、この辺の歴史に関心がある人にはかなりおすすめではないかと思います。
ペリーは最初から艦隊で来たのではなく、一隻で寂しく出発し、香港で軍艦を追加してやってきた、とか、学校の教科書レベルの知識だと結構意外な発見があったりしますよ。
この了仙寺から東の参道が、「ペリーロード」と呼ばれ、下田の観光名所となっています。
ものによっては「ペリー提督が歩いた道」などという記述もあり、ペリーが優雅に散策したようなイメージを持つかもしれませんが、実際は、ペリーは下田では港に停泊した船内に滞在しており、日本との条約交渉のために了仙寺に赴く際に、その都度この道を通った、というのが正しいようです。
このペリーロードを海に抜けると下田港へ出ます。
港の裏山は下田公園として整備されており、途中の展望台からは下田港の眺望が楽しめます。
ほぼ同じ場所に、「開国記念碑」が設置されていました。
この公園内には下田城址などもあるようですが、時間がなかったので途中で下山。伊豆急下田駅から、東海バスで西海岸の堂ヶ島へ向かいました。
この記事で言及した見どころの位置は以下の図を参照ください。
堂ヶ島については下記の記事をご覧ください。