「陸前高田市は、ほぼ壊滅状態ということです。」
震災の翌朝、NHKニュースが各地の被害状況を伝える中、愕然としたのがこのくだりでした。
自分の人生の中で、そしてこの日本において、「壊滅」という言葉を聞くことになるとは。
町全体が水没する中、高田病院の屋上に逃れ、助けを求めていた映像は今でも記憶に残っています。
そして、その中で生き残った一本松の姿も、直後から伝えられていました。
気仙沼から大船渡線BRTに乗り、長部駅を過ぎて気仙川の河口に近づくと、遠くからでも一本松の姿がはっきりと見えてきます。
乗客の中には「ああ、あれが一本松」と、海側の窓をのぞき込んでいる人もいました。
バスは一本松のそばを通り過ぎ、しばらく進んで奇跡の一本松駅に到着しました。
BRTで仮復旧後、地元の要望があって設けられた臨時駅。その後、常設の駅となりました。
付近の復興工事に伴って移設されており、もうすぐ6月1日にも移設されることになっています。
奇跡の一本松への道
上のルート図も、2019年5月時点の図になります。
下車した時、周囲のなにもなさにびっくりしました。
駅から西方向。
駅から北東方向。
駅(標識柱)を含めて北方向。
これは駅から南東方向。右手の奥の方に見える三角形の建物は、かつて道の駅だったところの遺構になります。
あとで調べてみると、この付近は元から農地であり、復興計画においても農地として利用されることになっているので、建物が何もないのは奇異ではなかったようです。
とはいえ、この時点では知る由もなく、よっぽど復興に手がついていないのか、というように見えていました。
バス停の付近にある、駐車場と店舗などが併設された一本松茶屋。大型観光バスも停車しています。
奥の方に飲食店や自販機などの施設があります。
海岸側に設けられた臨時駐車場。ゴールデンウィークということもあってこちらも概ね埋まっている状態でした。
上のルート図の通り、まだ仮設の歩道を進みます。
ところどころに置かれていた案内板。訪れる人をねぎらう手書きの言葉にホロリときました。こんな案内板を見たことがあったでしょうか。
道路沿いの一角に所狭しと並ぶトラックや重機。
海岸側で構築されている巨大な防波堤や水門。その手前で続く造成工事。きっと、これらの工事の拠点なのでしょう。
この辺で、空気感を感じられるように動画を撮ってみました。
気仙川沿いまで来ると、道路から降りて川沿いの道を進みます。
BRTのルートでもある気仙大橋は、橋梁の上まで被る大津波によって流され、仮設橋で復旧した後、2018年12月に本復旧が完了したばかりでした。
左が仮設橋、上が本復旧した気仙大橋。仮設橋は撤去されることになっています。
橋をくぐると一本松の姿が近づいてきました。多くの人が集まっているのがわかります。
通路に置かれている各種案内板。
震災前、高田松原に渡るために設けられた橋。「しおさい橋」の標石が傾いているのも津波の力なのでしょうか?
一本松の根元へ
一本松の根元まで来ました。
海側の遺構は、陸前高田ユースホステルの建物。言うまでもなく、津波の直撃を受けて崩壊したものです。
奇跡の一本松が生き残った理由の1つとして、このユースホステルの建物が津波の勢いをいくばくかでも食い止めたからではないか、ということが言われています。
上空にまっすぐ伸びる一本松。地面にはライトアップ用と思われるライトが設置されています。
ご存知の方も多いかと思いますが(もしくは上の写真の文字を読まれたかもしれませんが)、この一本松は根が海水に侵されたために震災の翌年に枯死と判定され、その後、モニュメントとして保存されています。
作り物にしてまで残す意味があるのか、という疑問もあるかもしれません。でも、この松は枯死したから価値がなくなるのではなく、あの日あの時に流されずに生き残った、そのことに大きな意味があると考えるべきなのでしょう。
根元に設置された碑文。
客観的にみるとただの松のモニュメントの展示かもしれませんが、現地の空気の中でいろいろなものを見ると、1つ1つ震災の日以降のことが偲ばれるようで、グサグサ刺さってくるわけです。
地面のモザイクタイルは、その上で遊んでいた子供がいたので離れるのを待ってから撮ったのですが、そんな中でも、もしこの子が被災地で育つのだとしたらどんな風に復興を担っていくんだろう、とか、そういうことを考えてしまうのです。
もともと松原があった場所にはまた松の植樹も始まっていて、白砂の砂浜を再造成する工事も行われるそうです。
いつの日かわかりませんが(私がそれを見ることができるかもわかりませんが)、美しい風景が蘇るのであれば、それを見たいと思います。
一本松茶屋に戻る
ひととおり見終えた後、一本松茶屋に戻り、次の盛行きのバスを待つことにしました。
後になってみるとあんまり写真を撮れてないのですが…
茶屋としてのWebサイトはないのですが、出店しているお店が茶屋を紹介している中ではこちらが一番詳しいかと。
一本マッ茶ソフト。こういうネーミングは大好きです。
松の枝を表現したチョコスティック(というか「小枝」?)、松ぼっくりを表現した甘納豆、ということでかなりおいしそうです。
残念ながら売り切れでした。
もう1つ立ち寄ったのが「八木澤商店」という醤油屋さん。
こうして、入口にやっぱり震災から立ち直ろうとしている歩みが書かれているわけです。
ちょっと、強調しすぎのようにも見えるかもしれません。「そんなに被災被災言わなくてもいいんじゃない?」「お情けで物を買ってもらおうとしてるの?」という感想もあり得るかもしれません。
ただ、現地でいろいろまわって感じたのは、「震災やその後に体験したことをとにかく誰かと共有したい」という思いでした。そういった思いが、このボードにも強く出ているように感じました。
ここで売られていたのは、もちろんオーソドックスな醤油・味噌(といっても、「君がいないと困る」とか「あなたのいるわたしの暮らし」とか妙な名前の商品もありますが)の他、軽食として「みそフランクのホットドッグ」や「しょうゆソフトクリーム」のようなメニューも提供していました。ホットドッグの方をいただきましたが、さらにもろみマヨネーズをトッピング。味噌・もろみの味わい深い風味が堪能でき、それがソーセージやパンともマッチしてかなりおいしいです。
なんで撮ってないのかと我ながら思いますが、画像としては下記記事の下の方とかご覧いただければ……。
復興への長い道のり
この時の旅行では、気仙沼、陸前高田、大船渡でそれぞれ短時間ながら被災した地域を見る時間を取ったのですが、その中では一番困難な道のりにあると感じたのが陸前高田市でした。
この後、バスに乗って陸前高田・高田高校前・高田病院と経由し、大船渡へ向かう中でも車窓を見ていましたが、産業の再生はまだこれからであり、観光客を呼べる施設等にも乏しいという状態に見受けられました。
上の図は、市の中核施設として市役所と県立高田病院の移転について図示しましたが、住宅についても、平地を放棄して高台への移転を進めています。陸前高田駅から東西のゾーンは、嵩上げをしたうえで産業ゾーンとして再生を目指すようです。
人口2万を切った市で、大規模に高台に移転し、そのうえで中心部の産業ゾーンを創り上げられるのかというと、ちょっと実現性はどうなんだろう、とも感じます。
もちろん、他の町との比較をしても意味がないので、陸前高田は陸前高田として、やるべきことをひとつひとつやっていくしかないのでしょう。
自分が何かする、みたいなことを言えるわけではないですが、そういった現状認識を持てたということ自体が、意味のあることだったと思っています。