東日本大震災の大津波によって、広田湾に面する市の中心部や、気仙川の上流など広域にわたって被災した岩手県陸前高田市。
あれから9年になる今も、いたるところで復興工事の音が響き渡っています。
広田湾に面して7万本の松が風光明媚な景観を作り出していた高田松原は、津波によってたった一本を除いてすべて流されてしまいました。
そのたった一本、すべてが壊滅した中で立ち尽くす松の姿はいつしか「奇跡の一本松」と呼ばれるようになり、復興を目指す陸前高田のシンボルとなりました。
高田松原には以前、「道の駅高田松原(愛称:タピック45)」が開設されていました。
この建物も津波で被災し、震災遺構として保存されています。
奇跡の一本松や旧道の駅を含む高田松原エリアは、震災後、復興祈念公園として整備されることになり、2019年9月22日、「高田松原津波復興祈念公園」として一部の供用が開始されました。
復興祈念公園の概要については以下のページで紹介されています。
開業以降、何度も訪問していて、まとまりはないのですがそれなりに撮影した写真があるので、ある程度整理して紹介していきたいと思います。
公園全体
エントランス
入口側は広い駐車場となっています。
この写真は、公園の名前を覚えるために撮ったもの。何しろ長い名前で、最初の頃はいろいろ間違えてツイートしていたのを懐かしく思い出します。
大船渡線BRT・奇跡の一本松駅
JR大船渡線BRTの奇跡の一本松駅は、BRTとして仮復旧後に開業した駅で、最初は臨時駅でしたが、その後常設駅となりました。
以前は付近の道路上にポールのみ置かれていましたが、公園のオープンに合わせて駐車場の一角に移設されています。
奇跡の一本松・陸前高田ユースホステル
復興祈念公園のシンボルとなるのはやはり奇跡の一本松です。
震災後、根が海水に浸かったことなどにより枯れてしまいましたが、中をくりぬいて心棒を入れ、枝葉は生き残っていた時の状態を再現するように制作され、モニュメントとして元の場所に置かれました。
また、奇跡の一本松の海側には、震災遺構となった旧ユースホステルがあります。奇跡の一本松が流されなかった理由の1つとして、この建物が津波の勢いを弱めたことがあるのではないか、と言われています。
上の写真は、気仙川西側から撮影したもの。大船渡線BRTで気仙沼方面から来ると、このような感じで車窓に奇跡の一本松が見えてきて、陸前高田にやってきたという感慨が湧いてきます。
旧道の駅高田松原(タピック45)
旧道の駅高田松原の建物も、公園の東端にある震災遺構として整備されます。
この建物は海側が斜めになっています。
これはなんとなくこういうデザインになっているのではなく、津波の時の避難場所として用意されたもので、だからこそ原形を留めているのです。実際、このてっぺんに逃げて一命をとりとめた人もいたそうです。
祈りの軸・献花の場・海を臨む場
公園のうち、国営追悼・祈念施設として整備されている部分。入口から海に向かっての「祈りの軸」を中心に、エントランスとなる建物を含めてシンメトリーな構造になっています。
エントランス部分に飾り気もなく置かれている水盤。一見、意味を感じられないのですが、水盤の前で正面の祈りの軸を見据えると、なぜか厳粛な気持ちになります。
神社では参拝の前に水で手を清めますが、同じような意味合いがあるのかもしれません。
冬季は凍結防止のため水盤は停止されます。その時期に同じ場所に立ってみると、祈りの軸の先の風景もなにか違って感じられます。
旧気仙中学校
公園の中心部から気仙川を挟んだ対岸には、旧気仙中学校の校舎が震災遺構として保存されています。
こちらはまだ公園としての整備は進んでおらず、外から見るだけで敷地内に入ることはできません。
ただ、全くの廃墟かというとそうでもなく、地域のお祭り用の神輿がここで保管されているというような記事も見かけたりしました。
気仙中学校は2018年3月で閉校となりましたが、被災後に音楽教師の方が生徒を励ますために、知り合いの作詞家・作曲家に依頼して制作された曲「空~ぼくらの第2章~」は、混成三部の合唱曲の1つとして全国で歌われています。
この校舎に掲げられた垂れ幕を見つけた瞬間、どれだけ心を動かされたかは、正直なかなか伝わりにくいかもしれません。
この時は、上に紹介した歌の一節だという事は知る由もありませんでした。垂れ幕を見て、後日、由来を調べて知ったことです。
ただ、荒廃した校舎が被災した当時の象徴だとすれば、その中でも前を向いて生きようとした思いの象徴がこの垂れ幕です。当時の様子を想像し、そして過ぎ去った年月や、復興を目指す陸前高田の風景を思い、感極まるものがあったのです。
単に綺麗な風景を見て、楽しい経験をするだけでは、ここまで心を動かされることもありません。他でもなく、この地域を何度でも訪れたいと思うきっかけになったのが、このシーンだったのです。
再生を目指す高田松原
岩手県や地元NPOを中心に、高田松原を再生させる取り組みが進められています。早ければ今年7月には、予定している4万本の植樹が完了するとのこと。
松原が元の姿を取り戻すのは50年後。とはいえ、今は真っ白で巨大な防潮堤が目立つ広田湾も、松原が育っていくことでどんどん景色が変化していくはずです。
震災についての常設展示を行っている気仙沼のリアス・アーク美術館は、津波によって松原はなぎ倒されたものの、竹林は生き残ったことに着目し、「植えるなら竹ではないか」と記しています。
検証によって強度が実証されるなら、防災としてはそれが正しいのでしょう。
ただ、人々の心のよりどころを取り戻すという意味で正しい方法かどうかはまた別の話です。防災と復興は時に相反する面もあり、一筋縄ではいかないものなのかもしれません。
エントランス施設
復興祈念公園のエントランスとなる建物。左右対称の構造で、右側に道の駅高田松原、左側に東日本大震災津波伝承館(愛称:いわてTSUNAMIメモリアル)があります。
「エントランス施設」というのは私が仮につけた名前で、この建物としての名前はありません。何か決めればいいと思うのですが。
この公園は、全体の整備は陸前高田市、国営追悼・祈念施設の整備は国、東日本大震災津波伝承館の運営が岩手県、道の駅高田松原の運営は陸前高田市という役割になっていて、その縦割りの影響がこういうところに出ているのかなという感じはします。
道の駅高田松原
建物の向かって右側が道の駅高田松原。多くの道の駅と同様、地元産品の物販、お土産品の販売、飲食・喫茶施設などが設けられています。
館内には、飲食店として「たかたのごはん」「まつばら食堂」の2店舗が営業しています。いずれも、海産物やブランド米「たかたのゆめ」などの地元産品をふんだんに採り入れたメニューに特徴があります。
上から、「たかたのごはん」のたかた丼とありすポークのぶたバラ丼、「まつばら食堂」のまつばら丼セットです。
喫茶としては、鳥取県に店舗を構える「すなば珈琲」が営業しています。もともと、鳥取県知事が「鳥取にはスタバはないけど、日本一のスナバがある」と発言したことがきっかけでできたそうです。
陸前高田の砂で豆を砂焼きしたコーヒー、陸前高田の地元企業が生産しているマスカットサイダーを原料にしたマスカットアイスといったメニューの他、冬季にはホットチョコレートといった冬向けメニューもあります。
ただ、ここの「すなば珈琲」はちょっと謎で、すなば珈琲のWebサイトには、陸前高田のことはまったく言及されていないのです。
鳥取側のオーナーが、震災後に復興支援で陸前高田を何度か訪れたりしたという縁があったようなのですが、あくまで個人レベルのつながりであり、企業としては鳥取側と陸前高田側は別物で、名前貸しというような形なのかもしれないですね。
東日本大震災津波伝承館(愛称:いわてTSUNAMIメモリアル)
津波の教訓と復興への道のりを伝える伝承施設。岩手県が運営しています。
入口には岩手県と周辺の地形を示した地図が置かれています。
三陸鉄道は2019年3月に「リアス線」として再出発した形で描かれているのですが、気仙沼線BRT、大船渡線BRTのルート図はなんだか見慣れないルートになっていました。
青線が気仙沼線BRTのルート。一見して現状と異なるのは志津川付近。「ベイサイドアリーナ経由」という便があったり、志津川駅が今の場所ではなく鉄道駅付近に置かれていた頃のものだと思います。
こちらは茶色のラインが大船渡線BRT。陸前高田駅の場所は今では栃ヶ沢公園駅になっていて、箱根山を囲むようにルートが2つに分かれているのも今は存在しません。当初、「小友経由」という便があったそうで、その頃のものかもしれません。
おそらく、2012年~2013年に仮復旧した当時のルートなのだと思います。
BRTのルートは細かく変わっていくので最新のものに追従するのは難しいとしても、三陸鉄道と同時期、2019年3月のダイヤ改正時点でのルート図ぐらいにはしてほしかったなあ、と思ってしまいます。
撮影は一部コンテンツを除き基本的にOKなのですが、上の駅名標以外ほとんど撮っていませんでした。
まず、こちらの伝承館は無料です。自由に立ち入りができます。また、解説員の方がおられて、必要に応じ展示物のガイドを行っているようです。
この伝承館の展示の特徴は、いきなり東日本大震災に入るのではなく、
といった、津波そのものについての理解を深める内容から始まっている点です。
次に、東日本大震災の映像や写真、被災物の展示、避難された方々のメッセージなどを通して、岩手県各地の被災の状況を知っていきます。
そして、震災発生時に人々がどのように行動したのか。一般の人々や学校での避難だけではなく、消防団員、役所といった地方の公的機関、そして国交省の東北地方整備局がいち早く輸送路を確保するために立案・実行した「櫛の歯作戦」や、自衛隊の動きについても触れられています。
ちなみに「櫛の歯作戦」とは、基幹となる縦軸としてまず国道6号を復旧させ、沿岸部の縦軸として国道45号を可能な限り復旧させ、両国道間をつなぐ横軸で可能なところを復旧させていくというもので、こうして文字にすると簡単に見えますが、地元の建設業者も含め、被災状況もわからないところから時間との勝負に追われ続けた、極限の中での作戦でした。
また、震災からの年表があり、単に出来事を列挙するだけではなく、直後の避難、避難所の運営、仮設住宅の運営など、それぞれの場面で課題となったことについても触れられています。
個人に向けての教訓としては、やはり「津波てんでんこ」がクローズアップされています。
単に津波が来たら逃げればいいというだけではなく、事前に訓練を重ねておくこと、いざとなったら各自がどのように行動するか決めておくこと、決して「自分さえ助かればいい」という教えではないこと、そういったことが説明されています。
教育的な側面を重視したと思われる展示はボリュームが凄く、一通り見るのに4時間ぐらいかかったかと思います。
まとめ
高田松原津波復興祈念公園は、単に飲食やショッピングを楽しむだけではなく、
といった多様なコンテンツで構成される一大観光拠点です。
陸前高田を初めて訪ねるという方は、まずここを訪れ、そしてまちなか地区や周辺へ足を伸ばすという感じがいいのではないかと思います。