3月11日。2011年に東日本大震災が発生した日として、将来にわたって語り継がれる日付となりました。
2019年から、この震災の被災地に頻繁に足を運ぶようになったことはこれまでの記事でも書いてきましたが、いろいろなものを見たりする中で、3月11日という日が被災地でどのように受け止められているのかということを知りたいと思っていました。
なかなか機会がなかったのですが、2022年、2023年はこの日に被災地を訪ねることができました。その中で、この日の持つ意味が犠牲者の追悼から、今を生きる人々のための日へと変わりつつあるのを感じたので、そのことを書き記しておきたいと思います。
2022年3月11日
この日は金曜日でしたが、有給休暇をとって前日夜に岩手県一関市で宿泊。当日朝にJR大船渡線で宮城県気仙沼市へ向かいました。
弔旗が掲げられた町
気仙沼駅に到着して、まずはタクシーで、市街地の北側に位置する安波山へ向かいました。
「この日の気仙沼の風景」ということで見ておきたかったのでした。
あいにく、霞で眺望はいまいちでしたが……
私が風景を眺めていた駐車場には、やはりこの日の風景を撮影しておきたいということなのでしょうか、ドローンを飛ばして撮影をしている人がいました。
下山して内湾周辺の市街地へ。いくつかの建物では弔旗が掲げられていました。
追悼と防災のつどい
3月11日といっても平日ですので、普通に町は動いています。通勤の車が忙しく行き交う中、ミヤコーバスで気仙沼駅に戻り、ここからはレンタサイクルを借りて、気仙沼市内を反時計回りにぐるっと巡っていきます。
まずは翌日のJR東日本のダイヤ改正で開業予定だった、気仙沼線BRTの東新城駅の様子を見て、南気仙沼駅近くにある気仙沼中央公民館へ。3か月前の2021年12月に復旧が完了して供用開始されたばかりでした。
この日、中央公民館では「追悼と防災のつどい」が催されていました。
震災から10年を超え、毎年この日に追悼式を行ってきた各自治体でも、今後のあり方が模索されていました。コロナ禍で、多くの人を一か所に集める催しが難しかったという事情もあります。
そうした状況で、気仙沼市が「防災への心構えを新たにする日」として位置付けたことが下記の記事で紹介されています。
この日のつどいの内容は下記のページで確認できます。
追悼を核としつつも、防災や震災の伝承について考える機会とするための多数の企画が行われていました。
今年1月1日の能登半島地震で、大津波警報の発令後にNHKのアナウンサーが強く厳しい口調で避難を呼びかけたことが話題になりましたが、そうした呼びかけの改善の取り組みも講演の中で紹介されていました。
気仙沼名物の昼食とデザート
公民館で展示や講演などを見ていると11時近くなってきたので、昼食のために移動。
公民館から自転車で数分の気仙沼海の市へ。3月11日だからといって町は追悼一色というわけではありません。観光施設は普通にオープンしているし、観光客が訪れて賑わっています。
昼食は気仙沼はらこめしを。一般的なはらこ飯はサケの身とイクラを乗せた丼ですが、サケの代わりに気仙沼特産のメカジキを使っているのが特徴です。
気仙沼の冬の味覚の代表がメカジキと牡蠣ですが、こうして様々なバリエーションで楽しめるのが現地ならではだと思います。
そして、海沿いを走って南町の喫茶マンボへ。
もう1つ忘れてはいけないこの時期の味覚が階上産の苺で、その苺を大量に盛り付けた喫茶マンボの「イチゴババロア」は気仙沼名物の1つです。毎年2月~5月頃限定。「苺を食べる幸せ」を心行くまで満喫できる。そういうデザートになっています。
気仙沼市復興祈念公園で迎えた14:46
午後は、さらに北へ向かって気仙沼市の復興祈念公園へ。途中、映画「護られなかった者たちへ」のロケ場所を通りつつ、急な坂道を電動自転車頼みで登っていきます。
町はずれの丘にあって普段は閑静な復興祈念公園ですが、さすがにこの日は別。追悼に訪れる人々、それを取材する報道関係者、園内の整理をする市役所の方々などが集まっています。
訪れる人はどんどん増えて公園を埋め尽くし、地震発生時刻の14:46、防災無線のサイレンとともに1分間の黙とうが行われました。
この時、私は同じように黙とうを行っていたのですが、カメラは南町方面に向けて録画をしていました。
岸壁に立ち、黙とうを捧げる方々の横で、海岸通りを行き交う自動車。
被災地の外から見ていると、ニュースなどでは「町は追悼の祈りに包まれました」というような言葉で報じられることもあり、3月11日というのは「町全体が喪に服す日」というようなイメージもあったのですが、あくまで日常は日常として普通に動いていて、その中で追悼を行っている。そんな様子を感じ取れた日だったと思います。
自転車を返却しに気仙沼駅へ戻る途中、これも翌日開業予定だった大船渡線BRTの内湾入口(八日町)駅の様子を見て、この日の気仙沼での行動はいったん終了としました。
高田松原津波復興祈念公園へ
気仙沼駅からは大船渡線BRTで岩手県に向かい、陸前高田市の奇跡の一本松駅へ。
駅に隣接する建物の中では、「いわて三陸沿岸のいま」と題した、岩手県の復興状況や震災伝承の取り組みなどの企画展示が行われていました。
高田松原津波復興祈念公園の園内を散策していると日が暮れていきます。
この日は、公園の入り口にある水盤に火を灯したろうそくを並べ、「3.11」の文字を描く大学生の企画が行われていました。
もっと暗くなったらさらに綺麗に見えたのだろうと思いますが、この後BRTで気仙沼へ戻るのであまり時間がなかったのが残念です。
気仙沼に戻り、鹿折唐桑駅の近くにある食堂「塩田」で夕食。マグロ中落ち、ホタテ、メカジキという気仙沼らしい食材の三色丼でした。
3月12日-陸前高田市の「つむぐイルミネーション」へ
この時は、翌々日の3月13日(日曜日)まで滞在していたので、後の2日間の主なトピックも挙げておきたいと思います。
翌日の3月12日の昼は大船渡市へ。市内の飲食店「オオフナトのケムリ」で売られていたのが、前年に流行したマリトッツォみたいな形の「オオフナトッツォ」でした。ボール型のおにぎりを割って、その中に漬物とイクラを詰め込んでありました。
夜は陸前高田市のイベント「つむぐイルミネーション」へ。3月11日からの3日間の開催でした。
市内の小中高生が製作した、さまざまな種類の明かりを灯すイベントです。
「つむぐ」という言葉の真意はそういえばわからなかったのですが、こうして共に物を作るという行為を通して、子どもたちに何かを伝えていく、世代を超えて紡いでいくということなのかな、と感じました。
3月13日-リアス・アーク美術館特別展へ
3月13日はまず道の駅大谷海岸に行き、気仙沼向洋高校と登米総合産業高校の生徒がコラボして製作したお弁当を購入。前年に放送されたNHKの朝ドラ「おかえりモネ」をきっかけとした、気仙沼市と登米市のコラボの1つ。両市の特産品がふんだんに盛り込まれた楽しい弁当でした。
午後は気仙沼市のリアス・アーク美術館の特別展「あの時、現在 そしてこれから」へ。震災からの復旧・復興事業による風景の変化、今後の展望について批判的視点も含めて提示するものでした。
リアス・アーク美術館の展示は、常設展示もそうですが、単に震災そのものを伝えるというだけではなく、津波常襲地帯としての文化や伝承のあり方、「復興」の思想や進め方について考えるきっかけを得られるものになっていると思います。「気仙沼でどこを見たらいいか」と聞かれることがもしあるとすれば(そんなことはないですが)私としては必ず挙げたい場所だと思っています。
2023年3月11日
2023年の3月11日は土曜日でした。
朝に東京を出て、仙台から高速バスで気仙沼へ。
掲げられなかった弔旗
気仙沼での下車後に気仙沼の町を少し歩いてみて、前年はいくつか見られた弔旗がまったく見られなかったことに気づきました。
土曜日なので開店していない店も多かったというのもあるのかもしれませんが、もしかしたら、市民の意識としても「追悼」というところから少しずつ変わっているのかな? ということを感じました。
WBCでの佐々木朗希投手の登板に湧く陸前高田市
その後、大船渡線BRTで陸前高田駅へ。まずは昼食ということで、駅近くの東京屋カフェで広田湾産の牡蠣を使ったカレーをいただきます。三陸のぷりぷりの牡蠣と、柚子の皮を削った風味豊かなカレーを楽しめる一皿でした。
その後は駅前の商業施設「アバッセたかた」へ。
この年はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が行われていて、この日の夜の試合で陸前高田市出身の佐々木朗希投手(ロッテマリーンズ)が登板する予定になっていました。
佐々木投手を応援する寄せ書きが募られていて、すでにぎっしり書き込まれています。これらは夜のパブリックビューイングの会場に掲示されていました。
集団移転先の高台から復興祈念公園を一望
陸前高田駅から、気仙沼行きのBRTで2駅の陸前今泉駅へ。震災後に移転先として切り開かれた高台に向かいます。
ここからは陸前高田の町を一望でき、高田松原津波復興祈念公園の様子も見ることができます。
やがて、公園の防潮堤に設けられた「海を望む場」を中心に多くの人が集まり、14:46になると防災無線のサイレンにあわせて黙とうが行われました*1。
思い出のみそドッグ
その後は陸前高田駅前に戻り、アバッセたかたにある「やぎさわカフェ」のみそドッグで休憩。
初めて陸前高田を訪ねた2019年5月、当時は仮設の集客施設だった「一本松茶屋」で食べたのがこのみそドッグ(醤油もろみマヨトッピング)でした。
当時書いた記事が下記になります。
この時、翌月には大阪へ引っ越すことが決まっていて、もう三陸方面に来れるのも当分先かな……などと思っていたので(実際はそんなことはなかったのですが)、思い出を振り返りつつ、すごくしみじみしながらいただいていました。
佐々木投手&大谷選手が活躍したWBCのパブリックビューイングへ
夜は陸前高田と大船渡の2か所でWBCのパブリックビューイングがあったので、泊まりが大船渡だったこともあって大船渡の会場へ行くことにします。佐々木投手は高校が大船渡高校なので、陸前高田市、大船渡市が一体で応援が盛り上がっている感じです。
大船渡線BRTの田茂山駅で下車し、山側にある市民文化会館(リアスホール)へ。
会場では応援グッズが配られ、市のPRキャラ「おおふなトン」はWBCの帽子をちょこんと頭に乗せていました。
試合は先発の佐々木投手が苦労しながらも試合を作り、大谷選手のタイムリーヒットもあって日本が勝利。会場のキャパと比べると人数は少なかったのですが、応援は盛り上がっていました。
私はBRTの最終便の時間があるので途中で抜けてきました*2。
夜は大船渡駅前の「キャッセン大船渡」にある「オオフナトのケムリ」で油そばを。
高校生の佐々木投手が食べていたというメニューも限定復活していましたが、この日は結構寒くて、さすがに冷たい蕎麦は無理でした。
3月12日(1)-「おかえりモネ」メモリアル展へ
翌日は気仙沼駅でレンタサイクルを借り、まずは気仙沼市の復興祈念公園へ。
公園内に展示されている伝承彫刻の新作「水をくみに」が前日に公開されていました。
これは、震災直後、給水されたペットボトルをもって歩く少年の写真が話題になったことを題材に制作されたものです。ただ、それをそのまま再現したわけではなく、当時の子どもたちの思いをシンボライズするような彫刻として表現されています。
今年の3月3日には、二度と会えない肉親への思いを表現した「三月」が新たに公開されました。
その後は3月10日から始まっていた「おかえりモネの舞台気仙沼 メモリアル展」へ。NHKの朝ドラ「おかえりモネ」の放送終了から1年間続いていた「おかえりモネ展」の後継で、おそらくは権利関係で出演者の写真などが使えない代わりに、気仙沼のロケ場所の写真と小道具などを組み合わせてフォトスポット的な演出が多用されているのが特徴でした(※2024年2月29日で終了しています)。
会場で使用されている気仙沼の写真には、直前に撮影したのか、1~2月頃の寂しげな風景の写真が多く、このイベントを3月10日に開始させるために急いで用意したんだろうな、と思いました。
つまり、この3月11日という時期は、追悼というだけではなく、この日をきっかけに何か新しいことを始める時期だったりもするのかな、ということを感じたのです。
なお、写真はその後夏に撮り直されたのか、秋に訪ねた際には緑豊かな美しい写真になっていました。
3月12日(2)-南三陸町「南三陸311メモリアル」へ
マスクの着用が原則自由となる直前で、南三陸さんさん商店街のモアイやオクトパス君がまだマスクをしていた頃でした。
南三陸町震災復興祈念公園の「名簿安置の碑」には、やはり前日に訪ねる方が多かったのか、多くの花束が捧げられていました。
前年(2022年)10月にオープンした「南三陸311メモリアル」を訪ねました。有料ゾーンでは災害に直面した場面でどう行動するかを考えるラーニングプログラムがあるのですが、この日は無料ゾーンのみ見て回りました。
その後は南三陸さんさん商店街の写真館「佐良スタジオ」へ。常設展「南三陸の記憶」では、震災直後、津波が町を飲み込む状況や、その後の復興の様子などを撮り続けた写真を見ることができます。311メモリアルの展示は数はそこまで多くないので、こちらの展示もあわせて見るのがよいと思います。
初めてこの写真展を見た時、まだミラーレスカメラを持ち始めた頃で、「自分はこのカメラで何を撮るのか」という、未だに答えが出ない問いを突き付けられたのを憶えています。
その後、商店街で夕食を食べて帰路につきました。
まとめ:「追悼」から「今を生きる人々の新たな1年」へ
この2回の経験を通して感じたのは、3月11日という日が、犠牲者の追悼の日であるだけではなく、震災を経て今を生きる人たちが、犠牲者の追悼をきっかけにまた新しい1年を始める日、ということになってきているのではないかということです。
1年の始まりは1月1日。日本での一般的な年度の始まりは4月1日。いろんな区切りがありますが、東日本大震災の被災地では、3月11日というのがそれらに相当するぐらいの区切りの日になっているのではないか、とも感じます。
だから、追悼という根っこの部分がなくなることはないとしても、喪に服すようなあり方だけではなく、防災や伝承のあり方についてみんなで考えたり、WBCの佐々木朗希投手を応援したり、「おかえりモネ」メモリアル展というハレのイベントを始めてもいい。この日の持つ意味はすでに変わりつつあるし、今後も変わっていくのだろう、と思いました。
*1:どうでもいい話なのですが、この時、多くの人が黙とうしている絵を撮るために、海を望む場の先端に報道カメラマンが陣取って撮影しているのがどうしても気に入らないのです。そこはあなたたちではなく犠牲者や遺族のための場所でしょ、と思ってしまいます。
*2:これもどうでもいい話なのですが、パブリックビューイング会場では周囲を報道陣に取り囲まれ、撮りたい放題撮られていたので、なんだか餌に釣られて包囲されて捕獲されたみたいな気分でした。