7月23日~26日の4連休、釜石、宮古などの岩手県沿岸を中心として旅行をしたので、その記録を順にお届けします。
前回は、この4日間で撮影した、三陸鉄道(+JR山田線、JR大船渡線BRT)の写真をまとめてお届けしました。
今回は4日目のメインイベント、宮古から盛岡へJR山田線の臨時快速列車「さんりくトレイン宮古」に乗車して、三陸沿岸を離れます。
JR山田線と「超我の碑」
今回、JR山田線は初乗車になります。
盛岡から宮古を結ぶ路線。かつては宮古から先、釜石まで陸中山田を経由して結んでいたので「山田線」という路線名ですが、ご存知の通り、この区間は東日本大震災からの復旧にあたって三陸鉄道に移管されました。
私の山田線のイメージとしては、「とにかく本数が少ない」「そしてよく止まる」というものです。現在のダイヤでいえば、区間運転と臨時列車を除いて、盛岡~宮古間を通しで運行するのは上下4往復。しかも、下り(盛岡発宮古行き)の最初の列車は11:06発の快速リアス号という具合です。
JR東日本の「三連休東日本・函館パス」は前日で有効期間が終わっていたため、宮古から東京へ戻るための乗車券を宮古駅で購入したのですが、窓口にはほぼ並行して運行されている岩手県北バスの106急行の時刻表が掲示されていました。そちらは盛岡~宮古間で平日12往復、土曜・休日が9往復あり、所要時間も大差ないということでよっぽど便利なのでした。
東北エリアの運行情報を見ていると、JR山田線はとにかくよく止まります。天候が荒れれば止まるし、荒れなくてもシカとよく衝突するし、昨年の紅葉の時期など、毎日のように車輪空転が起き(おそらく落ち葉のせいでしょう)まともに動いた日があったのかというぐらいでした。
もはやJRとしては、日常的な利用に期待するというより、何かの時に盛岡から三陸沿岸への経路を持っておきたいという理由で残しているようにしか見えません。とはいえ、最近になって途中駅の駅舎を簡素なものに建て替えるという発表がされており*1、コストを抑えて維持するスタンスと思われるので、すぐに手放すということにはならなそうです。
そんなJR山田線ですが、宮古駅前には、その険しい道のりを物語る一つの出来事を記念した碑文やモニュメントが置かれています。
蒸気機関車の銘板。
その出来事を記した碑。文章は以下の通りです。
昭和十九年三月十二日
山田線平津戸川内間において雪崩により貨物列車脱線顚覆 機関士殉職 機関助士重傷の大事故となる
豪雪の中 故加藤機関士は死の直前まで適確な指示をし
前田助士また重傷に屈せず看病と救援に全力を挙ぐ
爾来前田君遺訓を守り遺影を抱きて精励し 事故機関車C五八二八三号機廃車となるや銘板の保存方を切望す
磯崎総裁 機関士魂あふれしこの美談に大いに感激さる
ここに盛鉄局開局二十周年を機とし 管内職員の協賛を得て ゆかりの地宮古機関区に記念碑を建立す
昭和四十五年十月
盛岡鉄道管理局長
木 村 直
ここに挙げられた事故の具体的な状況は、宮古ロータリークラブが建立した別の碑に詳しく記されていました。
超我の碑
昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古に向かっていたC58283は、平津戸、川内間で雪崩に遭い脱線転覆した。この時、責任感の強い加藤岩藏機関士は、瀕死の重傷を負い乍ら自分に構わず、この事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。前田助士は、その命令に従ったが、ことの外の積雪の為進路を失い且つ又、加藤機関士の身を案ずる余り再び現場に戻り、厳寒の中で自分の着衣を機関士に着せ必死の看護に当った。しかし、その甲斐もなく救援隊到着の時は、己に尊い生命は奪われていたという。正にこの行為は「超我と友愛の精神」によるものであり、我々の理想とする処でもある。よって、そのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えんとするものである。 1972年11月
盛岡鉄道管理局の碑が建てられたのが1970年ですから、その2年後ということになります。
今は高出力の気動車ですんなり越えていく道のりですが、昔は山を越えて町と町をつなぐのがいかに大変だったかを思い知らされます。
初日、SL銀河で釜石線の仙人峠を越える時、手前の駅で長い停車時間を取り、列車の状態を確認しながら一歩一歩踏みしめるように進んでいった、あの迫力を思い出します。
ちなみにこの場所には、他にも鉄道開通を記念する碑が置かれています。
こちらはだいぶ古いもので、上部に「鐵道開通記念碑」とある以外の字はかすれて読み取れません。おそらくJR山田線の開通時に建てられたものなのでしょう。
こちらは三陸鉄道開通を記念した碑。
三陸鉄道 いま成る
我等の先輩が 鉄路への志を發してより九十年
その間 津浪にもめげずに立ち上り 又フェーン災害 ヤマセの悲風等 幾多沿岸特有の悪条件に抗しつつ ふるさとなる我が三陸を守り来たりたる沿岸人四十万は 今ぞ南北に鉄道を打ち貫く事を得たり
先人よ 照覧せられよ
後進よ この業の上に 更に三陸の未来を創建せよ
この鉄路こそは沿岸住民の生活 経済 文化の動脈たり 而して全國遊子の陸中海岸国立公園探勝の絹路なり
ここに三陸鉄道打通に身魂を捧げたる先人の功を 碑を建てて深く頌し 更に後進我等の奮闘を決意するものなり
当時の高揚が、まるでその時代にいるかのように伝わってくる文章です。
昭和五十九年四月一日
岩手県知事 中村 直
宮古市長 千田 真一
という名義になっています。
この日は、国鉄から三陸鉄道への転換とともに、旧北リアス線が全通した日でした。
ただ、先人の執念に思いを致すには、あまりにも時代が変わりすぎてしまった、ということも感じます。三陸沿岸を縦貫する動脈の役割は、いまや国道45号や三陸自動車道に移ってしまっているのでした。
三陸沿岸最後の食事、渾身の三陸丼をいただく
昼食は、駅前の「魚彩亭すみよし」へ。2日目に訪ねた「蛇の目本店」の隣になります。
2日目と同じ蛇の目本店にしようと思っていたのですが、何かの都合で開店時間が繰り下がっていってたのでこちらにしました。
注文したのは「三陸丼」。ちりばめたウニ、イクラをメインに三陸の海の幸が敷き詰められ、「もう思い残すことはないっ」と満足できる、最後の食事にふさわしい渾身の丼でした。
さんりくトレイン宮古とHB-E300系
11時過ぎ、盛岡から宮古に到着するさんりくトレイン宮古を撮影。
線路沿いにいる方々も立ち止まって眺めているのが印象的です。派手な車両だからかもしれませんが、もしかしたら「JRの車両がたまたま通ること自体が珍しい」という感覚なのかもしれません。
使用されているHB-E300系気動車は、大湊線の「リゾートあすなろ」号がメインステージで、車両にもその名が記されていますが、他にも必要に応じて東北各線に出向いているようです。また、他には羽越本線を走る観光列車「海里」もHB-E300系です。
盛岡行きの列車が宮古駅に入線し、改札が始まったので乗り込みます。指定席は先頭車の最前列を取ることができました。この列車は全車指定席です。
運転室の背後は展望室で、出入り自由になっています。
列車やHB-E300系に関しては、下記の記事で詳しく紹介されていましたので参考にしてください。
出発して10分を過ぎたころの車窓。宮古を出て次の停車駅は茂市ですが、宮古湾に注ぐ閉伊川沿いを走っていきます。このあたりはまだ川幅も広いですね。
茂市を出てからもひたすら閉伊川沿いです。川はところどころ蛇行していて、頻繁に橋を渡る場所があります。
川では釣りを楽しんでいる方も見えますね。
段々と川幅が狭くなり、険しくなっていく閉伊川。そして並行している国道340号の姿も所々で見えます。
集落が見えてくると陸中川井駅に到着です。
陸中川井を出ると、並走する国道は106号線に。川内駅までは小さな集落が続き、川沿いの狭い土地に田園風景も見えます。
川内駅の先へ進むと、もう人家もなく、ひたすら山また山、川また川の車窓が続きます。時折雨もパラついていたらしく、ワイパーが動作していたりしました。
先に紹介した「超我の碑」の出来事がこのあたりでした。
さて、運転室後ろの展望室ですが、どこかのご家族が、まるでそこが指定席であるかのように入れ替わり立ち代わり盛岡まで座り続けていたのです。
なので、途中まではそれを避けるように、右側の車窓を撮ったり左前方(展望室の左側の窓)からの車窓を撮ったりしていたのですが、それも飽きてきたので構図に入れさせていただくことにします。
声は聞こえないのですが、移り行く風景を見ながら二人で何を話しているんだろう、などと想像すると、家族の団欒はいいなあ、などと感慨にふけってしまいます。
区界駅を出ると、閉伊川から離れ、長いトンネルとS字カーブで分水嶺を越え、北上川へ注ぐ米内川沿いへと移ります。
遠くに見えてきたのは山岸駅。この辺から盛岡の市街地に入っていきます。
車窓に高層の建物が見えてくるといよいよ盛岡に到着です。
到着後にこの写真を撮る前も、例のご家族が記念写真を撮っていたので、それを待っての撮影でした。
以前から想像はしていましたが、特に川内から松岸までの間、ひたすら山深い場所を走るJR山田線を体験して、本数が少ないのもよく止まるのもさもありなん、と認識したのでした。「よくこんなところに鉄道を通した」という路線の1つなのだと思います。
とりあえず、シカに当たることもなく、定刻通り着いてくれたので安堵しました。
盛岡三大麺の1つ、盛岡冷麺をいただく
夕方に盛岡に着いたのですから、何か食べていきましょう。
盛岡といえば三大麺が有名です。
さんりくトレイン宮古の車内で、まずわんこそばの店をネットで探してみたのですが、ウイルス対策で事前予約が必要だったりしてやや面倒な感じ。盛岡冷麺の有名店が駅前にいくつかあるそうなので、そちらを訪ねることにしました。
訪ねたのは、駅前のビル群の一角にある「ぴょんぴょん舎」。盛岡駅からは地下道で大通りを潜って出口を出るとすぐです。入り口は狭いですが、中は2階・3階の2フロアを構える広々とした店です。
普通、焼肉の店では焼肉がメイン、冷麺はおまけになりますが、この店では最初にメニューに出てくるのが冷麺、そして肉類になります。
まずはノーマルな盛岡冷麺。辛さは何段階かあり、「別辛」としてキムチを別皿にするものもあるのですが、辛い物が特段好きなわけではないので、とりあえず一番控えめな中辛で。
透き通ったスープの旨味と酸味が溶けあった味わいがたまりません。ツルツルで喉越しのいい麺、旨味たっぷりのチャーシュー、スープと相性抜群のキムチ、甘みを添えるスイカ。盛岡冷麺らしいものはどこでも売ってますが、ハイレベルに完成された麺という感じでした。
冷麺一杯では物足りないので、別の冷麺も注文。
センナムル冷麺、というオリジナル冷麺。ゴマ油などで味付けし、レモン汁を振ったサラダを冷麺に乗せたもの。
ゴマ油の風味とレモン汁の酸味、そして冷麺の美味しさで、たっぷり野菜とともにさっぱり爽やかにいただける冷麺でした。
以上で、この岩手県梅雨の4連休の旅シリーズは終わりとなります。
遠野、釜石、宮古といった場所は今回初めて立ち寄りましたが、それぞれ、もっとたっぷり時間を取っていろいろな場所を訪ねてみたいと思える経験でした。