君と、A列車で行こう。

鉄道とシミュレーションゲーム「A列車で行こう9」を中心に綴るブログ。当面、東北地方太平洋沿岸の訪問をメインにしています。

岩手県梅雨の4連休の旅 (5)鵜住居にて~「奇跡」と「悲劇」の地で

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鵜住居駅前「釜石祈りのパーク」に建てられた防災市民憲章の碑

7月23日~26日の4連休、釜石、宮古などの岩手県沿岸を中心として旅行をしたので、その記録を順にお届けします。

3日目は午前中、雨の中でSL銀河を撮影した後、午後は三陸鉄道鵜住居駅へ向かいました。

a-train.hateblo.jp

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釜石駅にて。車両の前面などを見ていただくと、雨が降りしきる様子が見て取れるかと思います。

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釜石を出ると両石駅に停車して、その次が鵜住居(うのすまい)駅。到着すると、宮古方面からやってきた団体列車が到着していて、小学生の一団が下車していきました。

彼らが過ぎ去るのを待って「団体」幕で撮ろうとしたら、残念ながら「回送」幕に変わってしまいました。

このあと、釜石側の本線上で折り返し、宮古方面に戻っていったようです。

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折り返しの時に撮影したカット。右側の電柱は目立ちますが、奥の山にかかる靄の形がすごくよかったのでこういう構図にしました。

小学生の一団を見ていてびっくりしたのは、立派なカメラを持った子が多かったこと。コンデジを首からぶら下げている子も多いし、この時隣で撮っていた子など、Nikonのおなじみ黒地に黄文字のストラップを付けた立派な一眼レフカメラで撮影していました。撮影教室の一団かと思ったくらいです。

鵜住居駅というのは、もともとあまり有名な駅ではなかったと思います。この駅を含むJR山田線の釜石~宮古間が移管された後、三陸鉄道鵜住居駅を訪ねる震災学習列車の運行を始めましたが、なぜ鵜住居駅なのかピンと来ていませんでした。

そのあたりは順にご紹介したいと思います。

ビジターセンター「鵜の郷交流館」

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昼時だったのでまずは昼食です。

駅前一帯は「うのすまい・トモス」と名付けられたエリアが整備されています。

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その中の観光交流施設として「鵜の郷交流館」が設けられています。この中では、お土産品、三鉄グッズ、産直品などの販売の他、昼のみ営業の飲食施設もあります。

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丼・定食・麺と一通りのメニューが揃っています。この中の鮭親子丼を注文しました。

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素晴らしいのは鮭が炙ってあって、普通の鮭いくら丼とは違った味わいが楽しめるのと、その厚切りがたっぷり乗っていてかなり満足感があったことです。実はそこまで期待をしているわけではなかっただけに、いい意味で期待を裏切られた一品でした。

食事を堪能して出るころには、雨もあがってくれていました。

釜石祈りのパーク

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鵜の郷交流館の向かいにあるのが、追悼施設「釜石祈りのパーク」。釜石市における東日本大震災の犠牲者を追悼する場として設けられています。

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その中心となる円形の広場。慰霊碑には釜石市の犠牲者のほぼ総数にあたる1,000名近い芳名が地区ごとに刻まれ、上部には、この地区での津波の高さを示すモニュメントが置かれています。慰霊碑の前に立って見上げると、そこが完全に水に沈んだ場所であるということを改めて認識させられます。

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広場を囲む小高い部分には、釜石市の防災市民憲章が示されています。この銘板の右側に全文があるのですが、詳しくは下記ページからご覧ください。

www.city.kamaishi.iwate.jp

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入口から慰霊碑に続く通路の右側には、石を入れた籠が積まれています。なんでこんな仮設っぽいつくりなのか、もっとちゃんとした壁を作ればいいのに、と思っていましたが、これにも意味があるのでした。

基本的に籠に入れられているのは黒い石なのですが、一部分だけ黒くないところがあります。

これは、まさにこの場所にあり、津波に襲われた防災センターを解体した際のガレキを詰めたもの。

防災センターを震災遺構として残すか議論があったそうですが、こうした形で痕跡を残すことになったのでしょう。

近くには、防災センター跡地の碑も設置されています。

震災伝承施設「いのちをつなぐ未来館

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最後に訪ねたのは駅のすぐ北側にある「いのちをつなぐ未来館」。釜石市としての震災伝承施設になります。

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各地でいくつか同様の施設を見てきましたが、ここの特徴は、内部が小学校の図書室のような雰囲気になっていることです。掲示物の多くは手書きで、説明資料なども学級新聞のような形で作られています。

この「いのちをつなぐ未来館」は、釜石の被災状況の説明の他、鵜住居で起きた2つの出来事を核に構成されています。

1つめが、駅の海側に隣り合って建っていた釜石東中学校、鵜住居小学校の計600名近くの生徒・児童が、地震直後に懸命に避難を続け、高台へ、さらにその上の高台へと、一人の犠牲も出さずに*1迫り来る津波から逃げ延びたこと。

鵜住居地区を含む釜石市全体で99.8%の小中学生が無事だったことから「釜石の奇跡」とも呼ばれていますが、奇跡などではなく、普段の防災教育をそのまま実践したに過ぎない、とも言われ、防災教育の重要性を示す出来事として知られています。

この施設が小学校のような雰囲気で作られているのは、お金がないから手作りしているというわけではなく、この出来事から、子ども向けに訴求することを特に重視していることの表れではないかと感じました。

2つめはそれと対照的な、「大人の事情」が積み重なったことによる出来事。この地にあった2階建ての防災センターには、地震後に200人以上が避難し、そして2階の天井まで達する津波に呑まれ、多くの方が犠牲になったのでした。生存者は34人だったとされています。小中学校の「奇跡」と対比して「釜石の悲劇」とも呼ばれています。

この部分は子ども向けではなく、大人向けのかっちりとした展示になっていました。

本来の用途は災害後に被災者が身を寄せるための避難所だったのに、防災予算として補助金を得るために「防災センター」と名付けられたこと。地震時の避難所ではないのに、防災訓練の参加率を上げるために高台への避難ではなく防災センターへの避難で代用していたこと。そこに、当初の津波予想が3mだったことなど、様々な要素が重なり、いざという時に適切な判断ができなかったのでした。知れば知るほど、どこにでもありそうな話だと感じてしまいます。

こういう「大人の事情」的な話は、正面から見据えるのが案外難しいものです。それをしっかり掘り下げ、跡地を追悼施設として残し、教訓として展示されていることに敬意を表したいと思いました。

鵜住居駅のホームから撮影した、現在の釜石東中学校と鵜住居小学校(手前は鵜の郷交流館の裏側)。造成された高台に再建されています。

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釜石鵜住居復興スタジアム

うのすまい・トモスから駅を挟んで反対側には、2019年のラグビーワールドカップの試合も開催された釜石鵜住居復興スタジアムがあります。

元の釜石東中学校、鵜住居小学校の跡地に建設されたスタジアム。そのこと自体が、「釜石の奇跡」を伝える一つの形にもなっているのだと思います。

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列車の向こうに静かに佇むスタジアム。

今は新型コロナウイルスの影響もあり、ゲームやイベントの開催も難しいのではないかと思いますが、この静かな町が歓声で賑わう日がまた来ればいいなと思います。

 

鵜住居は静かな町ですが、三陸鉄道での旅行の際は立ち寄る価値がある場所だと思います。なぜ震災学習列車の目的地なのか、その理由がわかった経験でした。

鵜住居駅には、釜石方面、大槌方面と結ぶ岩手県交通の路線バスも運行されています。三陸鉄道の列車と時間が合わない場合は、バスを利用するのも1つの手だと思います。

次回は、この4日間で撮影した三陸鉄道の写真を中心にお届けします。

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*1:ただし、途中で保護者に引き渡された1名は自宅で犠牲となったそうです。